個性って
というか、この手の障害がゼロの人って存在するのか?
最近やっとADHD治療をちゃんと始めたんですが、個性だと思ってたものが全部障害だと分かって、まず「受け入れる」のがかなりハードでしたね。三日坊主と言われた飽きっぽさもそう、やればできるって言うのも特有の過集中、「自分」のアイデンティティーが調べるほど「障害」に置き換わっていく恐怖な…
— 小森雨太@擬人化図鑑通販中 (@comori_uta) 2018年6月24日
正直物凄いショックで、自分が分からなくなって辛いです、と先生に話したら「血液型占いだって、大体当てはまって感じるでしょう?」「だから、自己なんてそんなものです。どんな定義で囲まれても、あなたはあなたです」と言われて、ああここで治療受けて正解だったなって。よい先生だ。ぼくはぼく。
— 小森雨太@擬人化図鑑通販中 (@comori_uta) 2018年6月24日
反応
自分の場合、普通のことが出来ないことに凄い劣等感を感じていたので、むしろ障害と分かった時にポジティブに納得出来ました。受け入れるのにそんなに時間はかからなかったですね。今は投薬治療を終えて割と落ち着いて来たので、治療を始めて良かったなとおもってます。
全てを否定されるような感じですよね…… 一つ一つの行動が障害であると言われ、直しようもない=受け入れろなので……
治るかどうかわからない個性が医学的処置により治る障害に変わると考えれば安いもんです 偏見が怖いなら周囲には個性と言い切ってしまえば問題ないですし
ちょっと違うけど、自分の個性に障害の偏見を向けられたりするのが怖いと思ってしまう
どこにいても「変わってるね」って言われちゃう人で、人見知りしないのに馴染めないなんて人なので、今年ようやく心療内科に行く決心がつきました。
やはりこれだなぁ。個性として放置されてた一方でしたいことは否定され自己肯定感は得られず何がしたいのかすら、自分の形すらわからなくなり障害が明らかになった今でも家族は自分の事についてわかってくれず信じられなくなり 自分の「優しさ」ですらそういう特徴ゆえの行動かと思うと実に虚しいね
個性なんて全部精神障害みたいなもんじゃんね
わかるなぁ...。 「何でも断らずにやってみる」「必要とあらばどれだけハードでも頑張る」という、自分では美点だと思っていたものが、双極性障害 (躁鬱病)の躁エピソードの一部だったのは軽くショックだった。自分の「美点」が行き過ぎていると受け入れたり、それを削らなくてはいけないのは辛い
一度障がいなんて定義されると、自己を形成する人格のどこまでが障がいによるものか、どこまで自己なのかを見失いますよね。自分は程度の低いものだったので、単にこだわりが強いとかに置き換えて考えてます。 しかし、やはり障がいのせいなのか?なんて落ち込むこともあります
というか、この手の障害がゼロの人って存在するのか?