二郎






人はなぜラーメン二郎を食べるのか 美味い不味いが理由じゃなかった(堀井 憲一郎) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

ラーメン二郎には、なぜいつも人が並んでいるのか。

その「並んでいる人たち」の気持ちから、ラーメン二郎独特の世界を分析してみる。

(中略)

行ったことない人に、ラーメン二郎ってうまいのと聞かれたら、「うーん、べつだん、うまいとか、そういうものじゃないだよなあ」と答えてしまう。

答えられた人はだいたい困る。

質問者の中には「繰り返し食べるラーメンはうまいのだろう」という推察しかない。

「ラーメンはうまいかまずかで判断するもの」という価値観を持っているからだ。それはそれでいい。でもラーメン二郎は、うまい・まずいと関係のない地平に立っているのだとおもう。

ラーメンをうまいか、まずいかで判断しなくていだろう、そもそも「うまいものを食べる」ということがそんなに重要なのか、という根源的なことを問いかけてくるのだ。

私はそういう問いかけが、大好きなのだ(勝手に妄想している問いかけなのだが)。

ラーメンは生きるために食うのではないのか。ラーメン二郎からそういうメッセージを(とても勝手に)感じている。

(中略)

二郎にハマればわかる。ハマってもらえないと共感されにくい。

とても身体的なものだからだ。言葉で伝わるものではない。

ということは、いまどきの人気のラーメンは、言葉で伝わるものがけっこうある、ということになる。「美味いラーメンという情報」を食べているようなところがあるのだろう。

(中略)

うまい、まずいではなく、私は「強い、弱い」で判断する。

つまり「二郎がもともともってる強烈な味」のその「強さ」をそのまま維持されているか(再現しているか)、弱められているか、というところで判断する。「強い」ところが私は好きである。食べやすくなっていても、二郎らしさが薄いと、あまり楽しくない。

強さは、醤油味が強く、旨み(たぶん化学調味料的旨み)が強く、脂がたっぷりギトギトにのっているところに出る。そこはもう味がどうのというレベルのものではない。

二郎から「いまどきのラーメン事情に対する無言の批判」がこめられているようにおもっている。

平成の食事情に対する昭和の苦言でもあり、グルメ社会に対する批判にも聞こえてくる。

反応
分かる(語彙の消失)

食べたことないけど、ここまで熱く讃える長文を書かせ、果てには仏陀なりイエスなりに行きつくほどの存在であることは分かった。

友人が二郎はラーメンじゃないから。アトラクション、ジェットコースターみたいなもんだからと言っての思い出しました笑

なかなかの怪文だった

「情報を食べている」がとてもしっくりきた。

力説しているけど、結局は中毒や宗教といった言葉で片付けられるんだよなぁ。酒やタバコと同じ。