トロッコ






「人を助けず、立ち去れ」が正解になる日本社会 「岩国トロッコ問題」が露呈した本音 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

5人を助けられるのなら、1人を犠牲にしてもいいのか。この思考実験「トロッコ問題」を取り上げた山口県の小中学校が謝罪に追い込まれた。その理由は保護者からの「授業で不安を感じている」という指摘だという。文筆家の御田寺圭氏は「ケチがつくことには挑戦してはならないという、現代社会を象徴している」と分析する――。
(中略)

世の倫理学者や政治哲学者たちが喧々諤々と議論を続け、あるいはインターネットではインテリたちが「トロッコのレバーを真ん中にすればトロッコが脱線して全員助かる」などと大喜利をしているなか、意図せずして岩国の保護者と学校教員たちのやりとりが、トロッコ問題の「答え」を導き出してしまった。ほんの数名の「不安の表明」によって謝罪させられる教員たちから得るべきトロッコ問題の答えとは「現場から立ち去る」ことだ。

トロッコのレバーに触れる行為は、たとえ5人を救った英雄になれる決断であったとしても、必ずひとりの遺族には終生恨まれることになるものだ。「どうしてレバーを倒したのか」と。だが、レバーに触らなければ、さらに言えば一切関与せずにその場を立ち去れば「無関係な人」になれる。無関係な立場であれば、けっして英雄にはなれないかもしれないが、殺人者として恨まれるようなこともない。明日もきっと、いつもと変わらぬ穏やかな日々が待っていることだろう。

今回の事例でいえば「トロッコ問題」などという思考実験を授業中に提起さえしなければ、「問題」や「クレーム」が発生することもなかった。「物事の当事者になる」という選択肢を回避しさえすれば「責任」が問われるようなこともなかったのだ。たとえ大勢にとって有意義な学びの機会が提供できたとしても、ごく少数者が(「不安」を覚えて)犠牲になるのであれば、当然ながらその代償は発生する。場合によっては犠牲を出したことの責めを負うことになる。

たとえ動機がどのようなものであれ「ただしいこと」を追求するのではなく、だれかから「ただしくない」と論難・非難されるリスクを回避することに全精力を投入せよ――それが「トロッコ問題」から考えるべき答えだ。

反応
いじめ対策でカレーを中止しましょうなどと言う思考は(続行することで起こる問題を鑑みたとしても)アホだと思うけど、背景にはこの様な風潮が有るからかもしれない

恐ろしい社会になる、じゃなくて、なってるんだろうな。親(大人)がそうなんだもんな…

実行しても必ず犠牲が出るんだから当事者になるメリットが全く無い。これをチャレンジと呼ぶのはおかしいし、論点がずれてる。チャレンジというのであれば自分にメリットがあるべきだろう

「現場から立ち去る」 まさに私が常々思っていた回答だ

「全部自分の思う通りに安心したい」っていう消費者が増えてる時代だけど、教育現場までこんな有様だとは

まあ、東京の場合はそうなるだろうな、地方はそんなことない

本人は助けたつもりでも、それによっていちゃもんをつけられるという事例が国内外で現実として起こっている。 冤罪とか、かの国とか。故に、関わらないことが正解という事例もあるのは間違いない

俺も「関わらない」が正解だと思うぞ。もちろん、関わらないは除外された上での議論が前提なんだろうけど。